9月18日、毎年想ふこと。

今日9月18日
母がこの世を去ってちょうど8年

毎年この日、というか誕生日が近いから
もはや誕生日のことを考え出すとセットで思い出されてしまうこの日…

皮肉なものだ。

某SNSに当時綴った日記を残しているので
部分的に編集するが此処にも残しておこうかと思う。


 

10日ほど前ですがw
なんと、わたくし…

30歳になってしまいました

小学生ぐらいの頃は
30からおばちゃん!
と思ってて

中学生ぐらいは
40からおばちゃん!
と思ってて

大人になってからは
おばちゃんは歳(実年齢)じゃない!
と思っている今日このごろ

実際
自分より年下でも
「この子おばちゃんやわー」
と思う子もいれば
50歳ぐらいでも
「この人はおばちゃんちゃう!お姉さんや!」
と思う人もいますし

数年前までは、30になんかなりたくない一心でしたが

とある友人が30になった時
『30年間生きてこれた自分の身体にありがとうを言いたい』
的なことを綴っていて

なんかそれってステキな考えだなぁ
と思いまして

私も
30年間、あまり大きな病気やケガもなく
健康で丈夫に生きてこれたことに感謝しよう
って気分になりました

毎度ながら
いろんな人に
いろんなとこから
おめでとうって言ってもらえるのはやっぱり嬉しいし

しかし
私が無事に30歳を迎えられて
自分の身体より何よりも
「ありがとう!」
って言いたかった人が

無事ではありませんでした。。

去年の10月から肝臓がんを患い
早期発見で症状は軽かったらしく
仕事しながら通院治療を続けていた母が

約1ヶ月前
体調を崩して入院し

検査によると
今まで肝臓の一部にしかなかったがん細胞が
肝臓全体に急激に転移していて

主治医によると
「状態は厳しいです
悪ければ週単位、と思って下さい」

家に帰って1人になり
しばらく涙が止まりませんでした

よく
「失って初めてその大切さに気付く」
なんて言いますが
私は
“失いかけて”気付きました

元々うちは母子家庭で
たまにはケンカしつつもまぁ仲良くやってきたし
母は私を何より大切に思ってくれている事を日頃からひしひしと感じながら生きてきました

なので
その大切さが解っていなかった訳ではないと思うけど
やっぱり母が私にくれるそれに比べると
私なんて全然足りない、足下にも及ばないものだったと思いました。

とにかく
「母が、いなくなる」
と思うと
私は悲しみで胸がいっぱいになるばかりでした。

それから私はほぼ毎日のように
何を食べたらいいか、何をしたらいいかを調べたり
病院に行って
帰ったら○○せんといけんねー
などと
母が元気に退院したいと強く思うような言葉をかけていました

母も
「早く治さんとね!」
とずっと前向きでした

入院してすぐ
黄疸で身体中が黄色くなり
入院のきっかけになった吐き気に度々悩まされていましたが
できる範囲で食べ、できる範囲で動き
とにかく一刻も早く治そうと頑張っていました

8月末頃
叔母が再び主治医に呼ばれ
「やはり数値が悪くなっています。年は越せないでしょう。早ければ9月です」
という話をされたと聞きました

私はまた1人で泣きわめきました

しかしいろいろな覚悟を決めました
本人には、何があっても前向きに頑張れって姿勢を貫くこと
自分も諦めずに信じて看病すること
しかしその時はやってくるかもしれないこと
そうなったら、一人娘である私がいろいろと仕切らなければならなくなること。

数日後私は主治医に
「先生の言葉は信じないことにしました。母は頑張っているんだから、私も母を信じて頑張ります。母は、大好きな私の言うことが絶対ですから。先生も、そのつもりで協力していただけませんか?」
と宣戦布告ともいえる話をしに行きました

先生も
「分かりました。全力を尽くします」
と言ってくれました

その数日後、9月10日
私の30歳の誕生日
仕事休みをもらい、いつものように病院に行きました

母はテレビを見ながら寝ていたようで
「寝てるの邪魔しちゃ悪いから帰ろう」
と、特に会話もせず病室を後にしました

病院を出た直後
見かけない番号から電話がありました

病院(主治医の先生)からでした

「昨日までは普通に話せてたんですが、今日になってちょっと意識が朦朧としています。肝不全になっているんじゃないかと思われるので、これからバタバタと悪くなるかもしれません」

やはり落ち込みましたが
私は私に出来ることを精一杯やるしかないので
もう神に祈るような気持ちでしかありませんでした

しかし
それからの日々は本当に
辛いとか、大変とか
言葉では言い表せないものでした

1日ごとに
食事が全くできなくなり
まともに言葉を話せなくなり
自分でトイレに行けなくなり
自分で手足が動かせなくなり
ほとんど目が開けられなくなり…。

それでも、確かに息をしていました

なので私は
少しづつでもいいから
回復することを切に願いながら
毎日リンパと足ツボのマッサージをしていました

前向きに、とはいえ
そんな状態の母を
身動きが取れず、時に身体の痛みにもがき苦しみ、強く表情を歪ませる母を
見るに見ていられない気持ちになり

いっそ負けてしまったほうが
本人は楽になれるんじゃないか
と思わずもいられませんでした。。

そんな矢先
深夜、寝ていた私を叔母が起こしました

「病院から電話があった。血圧も脈も落ちてきてて、もしかしたら…やけ、来てくださいって」

私も叔母も急いで着替え、病院に向かいました

病室に着くなり
私は母の手を強く握りました

母はまだ呼吸をしていて
何度か言葉にならない言葉を発そうとしていました
しかし
徐々に呼吸は弱まっていき
ついに
呼吸しなくなりました。

9月18日 午前3時20分の出来事でした。

泣きたい時ほど涙は出ないとはこのことなのか。
叔母も涙ぐんでいて
主治医の先生も涙ぐんでいて

しかし私は…

それからの
目まぐるしく流れていく
見たことない非日常の出来事に
ひたすら放心状態というか

恐らく、目の前の現実を受け入れられずに
静かにパニック状態でした。

今思えば
もし受け入れてしまうと
自分がどうなってしまうか分からないのが怖くて
泣き崩れて、わめいて、収拾がつかなくなる気がして
できるだけ受け入れないようにしていたのだと思います。

次の日から
叔母と2人、いろんな意味で訳が分からないなりに力を合わせ
葬儀を行いました。

元々本人が
やるならごく身内でやってほしいと叔母には話していたそうで
友人1名と仕事先の1名のみに電話で連絡しました

通夜に来るのも
多くて5人ぐらいだね、と叔母と話していました

実際通夜に参加してもらったのは5名でしたが
式が終わったあとで
仕事場やら、同級生やら先輩やらがポツポツとやってきて…

10個あれば大丈夫でしょう
と10個用意してた香典返しが
なくなってしまいました

母は生前
私に何かと世話を焼いてくれては
「もう、どんだけ(私が母に)愛されとん!」
と自ら言うのが口癖でした

私はその日
母の遺体に
「もう…どんだけ(母がみんなに)愛されとん…」
と涙しながら投げかけたものでした

母のご友人みんなに
「ほんと、(私が母に)顔がそっくりになってきたねー」
などと言われ胸がつまりました

「でも、まだ56…まだ早いよね…」
などとみんなで話していて
「そうですね…」
と平然装って答えるものの、内心
「…えっと…これは誰の話をしているんだろう…あの写真の…あの人は…誰だっけ?」
と、やはり私は現実として受け入れられていませんでした

ほとんど現実を受け入れられぬまま
葬儀も無事に終了し

もうそれではダメだ、と
友人らに言われるまま
母とのいろいろを思い出し
一通り泣き叫んではみましたが
今でもまだ全てを受け入れられはしていない気がします。

病態が悪化して最初の頃
よくLINEでやりとりをしてる高校の同級生2名と
その時期に何度か会っていた友人1名に
母の話をしました。

他の友達にも
会ったら何か話したのだろうけど
自分からわざわざ連絡してまで話したいようなことでもないし
事態が落ち着いたら
こんな風に日記にでもしようと思っていました

同級生2人は
会ってはいないものの
ずっと私を励まし続けてくれて

2人には
母が息を引き取ったその日の夜に報告をしました

葬儀の準備をしていた朝
母と同じ名前の
その、もう1人の友人を思い出し
母のことをメールしました

その日の夜
その友人が私の他の友人にも知らせたらしく…

ちょっと!聞いたよ!
何でもっと早く知らせてこなかったの!?

3人がかりで?
電話で説教されてしまいました

3人とも
すごく私を心配してくれて
多分電話越しに泣いてるんだろうなってのが分かりました

その時は
3人の気持ちに嬉し涙してしまって

「そりゃこうなった事は悲しいけど、みんながそうやって私を思ってくれて嬉しいよ。ありがとう」
と伝えると
「みんながいわっしーをそんな風に思うのは、きっとお母さんがいわっしーをそういう人にしてくれたからだよ!」
と言われて
また涙が止まらなくなってしまいました

母と
ほとんどずっと一緒に生活してきたこの30年間
思い返せばきりが無くて
母が、私が全てなんだと言っていたのと同じように
私も
母がいなくなったら、1人で生きていけるのかな…
なんて思っていたけれど
私のことを思ってくれる人が
他にもいっぱいいてくれてよかった

母のおかげで、みんなのおかげで
私はやっぱり幸せなんだと思える

人生最大の不幸事がやってきて
大切な物に、改めて気づけた幸せ

人生って、不思議なものですね

母はよく
「ウチら、一卵性親子やもんねっ」
などと言っていました
母も私ほどではないだろうけど
わりと好きなことやった人生だったのではないかと思います

ただ唯一
大の子供好きな母に
孫の顔を見せてあげられなかったことだけが強く悔やまれます。。

職場でお世話になってるおばちゃんに母の話をすると
こんなことを言われました

「お母さんにとってね、子供の幸せが一番の幸せなんよ」

だから私は
いつまでも悲しい顔してちゃいけないし
今まで通り、いや今まで以上に
がんばって、好きなことやって
幸せだー!
って思いながら生きていかなきゃ、なのです

それが、今からでもできる
親孝行ってヤツではないかと思います

母は
いつまでも子離れできてなくて、大人げなくて、
口が悪くて、お金にだらしなくて、
ダメな母親だったけど

いつも周りに気を配って、愛想がよくて、
懐が深くて、料理上手で、
誰よりも何よりも私を大事にしてくれる
私の自慢の母親です

私も
もっと母に自慢してもらえるように
しっかり生きなくちゃ

そんなこんなで
私の30歳のスローガンは

“自立、自律” です

まぁまだまだな私なんですが
こんなにも長くて重苦しい日記をここまで読んでくださったみなさんは
多かれ少なかれ私のことを大切に思ってくれているんだと信じていますので

今後とも
こんな私ですが
よろしくお願い致します


 

8年経った今でもしょっちゅう母との夢を見たりするし
よく言われる
「記憶を忘れられた時が本当に死ぬ時」
で言うならば
母はまだまだ私の中で生き続けている。

既に成人した後の出来事だし、当時と今の自分はきっと大して変わってなくて
今でも自律みたいなもんはできてなくて時折自己嫌悪に陥ったりするけど
『好きなことをやって幸せに生きてる』は大体実現できているかと思う

もっと一生懸命やって
”生活できる”ようになると尚良しだw

精進せねば。。

最後まで読んで頂き、ありがとうございました!
どう思ったか等コメントもらえると嬉しいです
賛否両論ぐらいが丁度良いぞ来い♡

コメント

タイトルとURLをコピーしました